母親の孤立は家庭だけの問題なのか――三つ子育児事件から見える社会構造

前の記事では、2018年に愛知県豊田市で起きた三つ子育児中の事件と、2019年3月15日に名古屋地裁岡崎支部が母親に懲役3年6か月の実刑判決を言い渡したことを踏まえ、私はこの事件を母親個人の責任だけで見てはいけないと書きました。

ただ、そこで止まってしまうと、
「気の毒な事件だった」
「支援が足りなかった」
という感想で終わってしまいます。

私はもう一歩踏み込んで、なぜ母親がそこまで孤立しやすいのかを考える必要があると思います。

この事件を考えるとき、大事なのは「一人の母親がどうだったか」だけではありません。
その母親が置かれていた家庭内の構造、そしてその家庭を取り巻く社会の構造まで含めて見ないと、本質は見えてこないからです。

三つ子育児がどれほど過酷かは、想像するだけでも重いものがあります。
授乳、おむつ替え、泣き声への対応、寝かしつけ、家事、生活の維持。
それらが、同時並行で三人分です。

しかも乳児の育児は、「今日は休もう」が通用しません。
夜中も、早朝も、赤ちゃんの都合で生活が動きます。
母親の体調や気分では止められない。
その意味で、乳児育児は常に他者に生活の主導権を握られている状態でもあります。

とくに大きいのは、命への責任です。
赤ちゃんが泣けば放っておけない。
授乳も、おむつ替えも、体調の変化も、全部が「命に関わること」のように感じられる。
その重圧が、寝不足の中で一日中続く。
これは単なる作業量の問題ではなく、精神的な責任の重さでもあります。

そしてその重さは、家庭の外には非常に見えにくい。

外から見れば、家で子どもを見ている母親に見えるかもしれません。
けれど実際には、終わりの見えない緊張と、細切れの睡眠と、三人の乳児の要求に応じ続ける消耗の中にいる。
この現実が見えないまま、「家庭の中で何とかするもの」と見なされてしまうと、母親は孤立しやすくなります。

ここで考えなければならないのは、父親はどうだったのか、家庭はどう機能していたのかという視点です。

この事件を考えるとき、母親だけを見ていては、家庭内での役割分担や支え合いがどうなっていたのかが抜け落ちてしまいます。
もし夫が仕事で長時間家庭を空けざるを得なかったとしても、ではその働き方自体は問わなくてよいのか。
もし夫が家にいても十分に育児負担を担えていなかったなら、そこにはどんな家族観や性別役割分担意識があったのか

こうした問いが必要です。

ブオー

ならば、結局は夫がもっと育児を担えばよかった、ということではないか?
そこが足りなかったのなら、夫の責任はかなり重いようにも思える。

りょしょー

それも一面ではあります。
ですが、そこで一人の夫だけを断じて終わらせてしまうと、視野が狭くなります。
父親の役割は問われるべきです。
しかし同時に、父親が育児参加しにくい働き方、母親へ負担が偏りやすい家族観、助けを求めにくい空気も、あわせて見なければなりません。

ヨーセン

――お、ぶおーはん、今日ちょっと雑やな。
「犯人はこいつや!」で終わったら、話早いけど浅いで。

私は、この事件の背景には、日本社会に根強く残る「子育ては母親中心で回るもの」という前提があったように思います。

もちろん、表向きには「夫婦で協力して子育てを」という言葉は広がっています。
けれど現実には、長時間労働や父親の不在、家事育児の偏り、そして「母親が中心になるのは当然」という空気が、まだ根強く残っています。

その結果、母親は助けを求める前に「自分がやらなければ」と抱え込みやすくなります。
そして周囲もまた、「子どもを育てるのは母親なのだから」と、無意識にその負担を当然視してしまいます。

育児の極限状態を経験していない人にとって、乳児三人の育児は「大変そう」という抽象的な理解にとどまりやすい。
けれど、その「大変そう」と、毎日一時間睡眠で命を預かり続ける現実との間には、ものすごい隔たりがあります。

この隔たりこそが、母親の孤立を深くしているのだと思います。

そして私は、家庭の中の苦しさは、その家庭だけの問題ではないと思っています。

長時間労働が父親の育児参加を難しくしているなら、それは働き方の問題です。
母親が助けを求めにくいなら、それは文化の問題です。
保健師への相談が具体的な支援につながりにくいなら、それは支援設計の問題です。
家の中の苦しさが外から見えにくいなら、それは社会が育児を家庭の私事に押し込めてきた結
果でもあります。

私自身、家事や育児の負担を十分に理解できていなかった時期があります。
仕事を理由に家庭の大変さを後回しに見ていた面も、きっとありました。
だから今この問題を書くとき、私は「外から正義を語る立場」ではなく、自分もまたそうした文化の中で鈍感になっていた側だという感覚を持っています。

その感覚があるからこそ、私はこの事件を「母親が弱かったから」とは思えません。
むしろ、そこまで追い詰められるまで家庭と社会が彼女を一人にしていたことの方が怖いのです。

家庭の中で起きることは、家庭の外ともつながっています。
そして育児の孤立は、しばしば「家庭の問題」として片づけられることで、さらに見えにくくなります。

私は、この事件を通して、母親個人を責めるより先に、
父親の役割、夫婦の支え方、家族の機能、働き方、支援の届き方を問い直す必要がある
と思いました。

母親だけに育児の責任と忍耐を集中させる社会のままであれば、同じような孤立はこれからも起こりえます。
だから必要なのは、「もっと頑張るべきだった」という視線ではなく、家庭の中の苦しさを家庭の外へつなげ、支えの手を増やしていくことではないでしょうか。

ブオー

家庭の問題に見えても、実は社会の形がそこに出ているのだな。

りょしょー

はい。
家の中の苦しさを、その家庭だけに返してしまえば、また孤立は繰り返されます。
家庭の中に閉じ込められた負担を、家庭の外の支えへとつなぐことが必要です。

ヨーセン

――「夫婦でちゃんと話し合えばよかったんちゃう」で片づくなら、相談員も支援機関もいらんねんな。
世の中そんなにきれいに回らへんから、みんな苦労してるんやけど。

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