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母の手記に残されていた矛盾した愛情――祖母、母、私へ続く流れをどう受け止め直したか

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関連記事②:母の最期の意思を叶える2時間のリミット――医学の進歩のために迎えた誕生日と、通夜の奇跡

母の最期を看取り、その意思を形にするところまで関わった時、私は、自分の中で何かひと区切りがついたようにも感じていました。

置いて行かれた悲しみは消えていない。
けれど、母にもまた、祖母との関係や時代の制約、発達特性らしい不器用さがあった。そう理解し直し、最期には母の意思を受け取り、それを形にする役割まで果たした。そこまで来た時、私は、子どもの頃に置き去りにされた自分と、大人になって母を見直す自分を、ようやく同じ場所に立たせられた気がしていました。

けれど、母との関係は、そこで終わりませんでした。
死後に見つかった母の手記には、生前に受け取りきれなかった、もっと矛盾した感情と、もっと残酷な言葉が残されていたからです。

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母の手記は、過去をもう一度開いた

母が亡くなった後、その手記が見つかりました。
そこには、母が家を出た後の心境が綴られていました。

家を出た後、母は私以外の兄妹を思い、何度も母になろうと努力していたこと。
家出先では、母自身も酷薄な仕打ちを受けていたこと。
電話で「帰ってきて」と泣く私の声を聞き、声が聞けて嬉しかったと書いていたこと。
そしてその後に、

「大好きだよ」
「一緒に居られなくてごめん」

という、私には届かなかった言葉も残されていました。

ここまでを読めば、母なりに苦しみながらも、私への思いを持っていたのだと受け止めることもできます。

けれど、その流れのあとに、さらに別の言葉が続いていました。

「あなたがいるから、この苦しみから逃れられない」

その一文を読んだ時、私は大きく落とされる感覚がありました。

大好きだよ、と書いている。
一緒に居られなくてごめん、とも書いている。
それなのに、その少し先では、私の存在が自分を苦しめるものとして書かれている。

子どもの目線で読み直すと、これはあまりにも残酷でした。

愛されていたのか。
捨てられたのか。
必要だったのか。
邪魔だったのか。

そのどれか一つではなく、相反する感情がそのまま同じ人の中に並んでいて、それを子どもだった私は受け止めるしかなかった。その意味で、この手記には、ダブルバインドのような残酷さがあったのだと思います。

この手記が書かれたのは、母が家を出た翌年の、私の誕生日でした。幼稚園の卒園を控え、小学校に入学する前の頃にあたります。つまり私は、「大好きだよ」という言葉がどこかには書かれていながら、それを伝えられないまま、その時期を過ごしていたことになります。

この頃から私は、人に頼ることを諦めるようになったのだと思います。

約束をそのまま信じない。
言葉をまっすぐ受け取れない。
近づいてくる人の中にも、いつか離れる気配を先に見てしまう。


そうした感覚の土台は、この時期に作られたのだと、手記を読んで改めて思いました。

手記を読んで、昔の自分がどう傷ついたかが見え直した

私は長いあいだ、自分の怒りや不信感を、ただ性格の問題のように感じていた時期もありました。けれど、母の手記を読むと、それはただの過敏さではなく、子どもの頃に受け取らざるを得なかった矛盾したメッセージへの反応でもあったのだとわかります。

愛情を向けられた記憶と、切り捨てられた記憶が、同じ人の中に同時に存在している。
それを子どもが整理できるはずがありません。

だから私は、人をそのまま信じる前に、まず疑い、身構え、期待しすぎないように生きてきたのだと思います。

それでも今は、母を一面的には見なくなった

ただ、今の私は、子どもの頃の私と同じ場所に立っているわけではありません。

母以外の人たちとの関わりの中で、私は少しずつ、人への信頼、義理、愛情を学んできました。

支えてくれる人がいること。
言葉が裏切りだけではないこと。
人は一面的な存在ではないこと。

そうしたことを、母とは別の関係の中で経験してきました。

だからこそ今は、母の手記に残された矛盾も、ただ責めるだけの受け止めはしていません。

母は母なりに苦しみ、揺れ、母になろうとしながら、なりきれなかった人だったのだと思います。愛情がなかったのではなく、愛情だけではどうにもならない不器用さや限界があった。

私も出来上がった大人ではなく、愛情と矛盾したものを抱える親であると自覚するからこそ、それはよく理解が出来るようになりました。

もちろん、それで傷が消えるわけではありません。
残酷だったことが残酷でなくなるわけでもありません。
けれど、「残酷だった」という事実と、「それでも母にも苦しみがあった」という事実を、同時に置けるようにはなってきました。母の手記。

連れ子が背を向け、置いて行かれた私が葬ったということ

母の最期には、幼い頃に母と一緒に家を出た兄妹は背を向け、置いて行かれた私が最後を看取り、葬儀を執り行うことになりました。

この構図だけを見ると、皮肉のようにも見えます。
けれど私にとっては、単なる皮肉では終わらないものがありました。

私は母を助けたかったというより、本当に困っている高齢者を見捨てられなかったのだと思います。その感覚には、相談支援や高齢介護の実務を通して身についたものもあります。
同時に、置いて行かれた子どもだったからこそ、誰かが本当に困っている場面を見て見ぬふりができない、という部分もあるように思います。

母の最期を引き受けたのは、許したからだけではありません。
遠方にいても、仕事を抱えていても、遺恨があっても、それでも動かざるを得なかった。
その感覚自体が、私の人生の形を表している気がします。

通夜の夜から始まった供養

供養は、母が亡くなって1年後に始まったのではありませんでした。
実際には、通夜の夜から始まっていました。

生前から交流のあった菩提寺の住職が駆けつけてくださり、親族が夜通し経を上げるものだと教わりました。私は、母の遺体の前で、意識が続く限り経を上げました。あの夜は、悲しみを整理していたというより、生前に関われる時間が短かったからこそ、死後への旅路は全力で出来る限りの弔いをしたかったのです。

その後も、住職から供養の作法と読経を学び、供養を続けました。
母が亡くなって1年後には、供養はさらに生活の柱となり、毎日2時間の経を欠かさず上げるまでになっていました。

私は、母は無事に成仏し、今は身近な存在として家族を強く守護してくれているように感じています。
それをどう受け止めるかは人それぞれでしょうが、私にとっては、死後の母がようやく穏やかな形で自分のそばにいるという感覚があります。

母はケアマネの1期生で私を社会福祉の道に導いてくれた人でした。今でも、とてつもない難ケースに直面した時にふと解決策が見いだせるのは、大先輩である母がそっと耳打ちをしてくれていると思う時もあります。

生前には十分に親子になれなかったかもしれません。
けれど、死の直前に縁を深め、その後の供養を通して、最期に真実の親子になれたという感覚が、今の私にはあります。

祖母、母、私へと続いた歪み

ここまで来ると、母だけを個人の問題として見ることはできなくなります。
私の中では、祖母、母、そして私へと続いてきた何かの流れとして見えるようになっています。

祖母は、さらに厳しい姑から嫁いびりを受け、それでも耐えるしかない時代を生きた人でした。
母は、その祖母の厳しさと、男尊女卑の圧、嫁姑DVのような関係の中で壊れていった人でした。
そして私は、その流れの中で置いて行かれ、矛盾した感情を受け取り、不信や怒りを抱えて育ちました。

そこには、

  • 嫁姑DVのような関係

  • 男尊女卑

  • 女性の権利の乏しい時代

  • 発達特性

  • ハラスメント感覚

  • 人に頼れなさ

  • 頼り始めると依存的になる距離感

といった、いくつもの要素が絡み合っています。

だからこそ私は、母だけを責めても終わらないと思っています。
同時に、ただ「時代のせいだった」と片づけても終われないとも思っています。

母のことだけを書いているのではない

母の手記を読んで、私は、母をただ被害者としても、ただ加害者としても見られなくなりました。

私を深く傷つけた人であることは事実です。置いて行かれたことも、その後に残った矛盾した言葉も、子どもだった私にはあまりにも残酷でした。その事実は消えません。

けれど同時に母は、母なりに必死に生きてきた人でもあったのだと思います。祖母との関係や、女性の権利が乏しい時代の圧、家庭の中で受け継がれた歪み、発達特性らしい不器用さを抱えながら、それでも生きてきた人でした。立派という言葉がふさわしいかはわかりません。ただ、過ちも弱さも抱えたまま、それでも一人の人間として生きてきたことは否定できません。

私は、その母の過ちを見ないふりをしたいのではありません。
過ちも、理不尽さも、残酷さも、そのまま認めたうえで、それでも一人の人間として認めたいのです。許すという言葉も簡単には使えませんが、少なくとも、傷つけられた事実だけで母のすべてを閉じたくはありません。

そしてこれは、母のことだけを書いているのではありません。


私もまた、別の形でこどもを傷つけています。受けた傷があるからといって、傷を渡す側にならないとは言えません。自分ではそうしたくないと思っていても、関わりの中で痛みや重さを背負わせてしまっている現実があるなら、その事実から目をそらすことはできません。

だから私は、負の連なりを自分の代できれいに断ち切れる、とは言えません。
そんなふうに言い切れる場所にはいません。むしろ、自分の中に残った歪みが、関わりの中で別の形をとって出てしまうことを認めたうえで、それに向き合い続けるしかないのだと思います。

母を一人の人間として見直すことと、自分の中の加害性を認めることは、私の中ではつながっています。
誰かをただ悪い人にして終わるなら、自分のこともまた都合よく切り離してしまえるからです。そうではなく、傷つけられた側にも、傷つける側にもなりうる人間として、自分もまたその流れの中にいることを認めなければならないと思っています。

きれいごとでは終わらせないために

母の手記が残したものは、癒しだけではありませんでした。
傷の由来を見せると同時に、その傷を受けた自分が、次にはどう生きるのかを問うものでもありました。

今の私は、母のことを「ひどい人だった」とだけも、「可哀想な人だった」とだけも言えません。
傷を与えた人であり、同時に傷を抱えていた人でもあった。
不器用で、残酷で、けれど愛情がなかったわけでもない。
その複雑さを複雑なまま受け止めることが、今の私にできる精いっぱいなのだと思います。

そして、その複雑さを引き受けた上で、自分の中に残っているものを見続けること。
それが、母の死後に本当に残された課題なのだと思っています。

母をただの加害者として終わらせないことと、自分をただの被害者として置いておかないこと。
その両方を引き受けるところにしか、この重さを少しずつ変えていく入口はないのだと思います。

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