前回記事:39年後に3日だけ親子になれた──母の看取りの中で見えた家出の背景
母との距離がようやく縮まり、やっと親子らしい時間が持てるかもしれないと思った矢先でした。
2020年12月、母の入院が決まり、私は「明日が母との最期の晩餐になるかもしれない」と感じていました。数十年ぶりに母の家に泊まり、生涯を語りたいと思うほど、ようやく関係は変わり始めていました。
母は看護師として長く働いてきた人でした。
そのため、自分の身体の変化から、すでに自分の末期が近いことを予感していたようです。私も、ただの体調不良ではない重さを感じていました。
それでも、その時はまだ、退院後の介護サービスをどう組み立てるかを考えていました。母のケアマネと連携し、入院後も生活がつながる形を考え、医師とも交渉しながら動いていました。
緊急入院から、最後の時間が始まっていた
目次
まさか、約1か月後に看取ることになるとは、その時は思っていませんでした。
私は、母の容体悪化を受けて、緊急入院を依頼する場面から立ち会っていました。それまで姉夫婦が関わっていた時には、主治医と十分な交渉を行うことができず、入院を希望しても門前払いにあっていました。
しかし私は、事前資料を作成し、ケアマネと組み立てていた退院後の生活プランも示しながら交渉し、即入院の了承を得ることができました。
入院後も、私は週に1~2回は通い、不足しているものを買い足したり、カンファレンスに参加して治療方針を確認したりしていました。特に、こどもを同行して一緒に百人一首をしたことは、和歌を愛していた母にとって感慨深い時間だったのではないかと思います。
今振り返ると、その1つ1つの関わりが、病院ではもう取り戻せない、家族との最後の時間になっていました。
そうした関わりを通じて、母は私に最後の願いを託しました。自分の遺産は私に譲りたいこと、逆に、関わりを拒絶していた姉妹には渡してほしくないこと。その意思を残したいのだと、母は私に伝えてきました。
ICUと面会禁止で、距離は再び遮断された
1月中旬、私はその意思をどう形に残せばよいのかわからず、翌週に弁護士に来てもらい、相談する約束をしていました。ところが、その約束をした直後、母は週明けに急変し、ICUに入りました。
しかも当時はコロナ禍で、面会は禁止でした。ようやく近づけたと思った距離が、一気に遮断されました。
私は2日後に弁護士へ相談しました。母の命が危ないかもしれず、しかも面会もできない状況の中で、どうすれば本人の意思を残せるのかを確認するためです。
すると、危急時の遺言には3人の証人の立ち会いがあれば、代筆で用意した遺言書の内容を読み上げ、本人の意思を口頭で確認し、それを口授として遺言書にすることができると知りました。
2時間で3人の証人を集めることになった
その翌日、母の命日となるこの日、私は病院へ交渉しました。その日のうちに隣県に住む証人を3名集めることは非常に難しかったため、医療スタッフが証人になれないかと頼みました。
しかし、病院としてはそこまでの責任は負えないため、認められませんでした。その代わり、コロナ禍の面会制限を免除し、私を含めた4名が立ち会う許可は得られました。
問題はそこからでした。私は当日の勤務を抱えたまま、2時間で証人を3名集めなければなりませんでした。そのリミットを越えると翌週まで面会はできず、母の命が持ちこたえられない状況でした。
移動時間を含めると、実質1時間ほどの猶予しかありませんでしたが、私は携帯の連絡先から片っ端から連絡し、証人を募りました。
結果として、奇跡的に、証人としてすぐに母の入院する病院へ駆けつけ、立ち会ってくれる方々を募ることができました。
1人は弁護士。
1人は母の親友。
そしてもう1人は、相続欠格事項に触れない親族でした。
弁護士は大変ご多忙な方だったのですが、前日に相談していた経過から少し心づもりをしてくださっており、駆けつけていただけました。
あの時は、悲しむとか取り乱すとかいうより、まず動くしかありませんでした。母の最期の意思を形にするには、今この短時間で人を集めなければならない。その一点だけで走っていたように思います。
結果として、遺言書はリミット5分前に完成しました。
やっと間に合った、という安堵があった一方で、ここまで切迫した状況の中で、母はもう本当に最期のところに来ているのだという現実も、そこで突きつけられました。
母が望んだ最期
その後、延命措置の意向を確認すると、母は、一切の延命措置を望まないと答えました。
そして、自分の身体を今後の難病治療の研究のために検体として提供したいと、息も絶え絶えになりながら訴えました。
チューブと酸素マスクをつけ、痩せ細った母が、苦しい息の合間に、自分の最期をどうしたいかを語る。その姿を前にして、私は涙をこらえきれませんでした。多くの人がいる場で嗚咽しながら、それでも聞き取らなければならなかった。
ここで目をそらしてはいけないと思いました。母が今、何を望んでいるのか。それを受け取ることが、自分に託された役割のように思えたからです。
話の最後に、母と私は「ありがとう」と言い合いました。
やっと親子らしくなれて、これからだと思ったのに、その「これから」はもう残されていませんでした。それでも、その一言を交わせたことは、本当に大きかったと思います。
臨終の場で、私は母の意思を伝える側になった
主治医にその意向を伝えている最中、看護師に呼ばれました。
急いで向かうと、多くの医療スタッフに囲まれた中で、母の心電図の波形が弱くなっていくのが見えました。
ベッドサイドに行くことが許され、私は母の身体に触れながら呼びかけました。脈拍は少しずつ弱まり、触れている身体もだんだん冷たくなっていきました。あの時の時間の流れは、今思い出しても独特です。長かったのか短かったのか、よくわかりません。ただ、確実に終わりへ向かっていることだけはわかっていました。
医師から、延命措置について最後の確認を受けました。
私は、母の最期の意向をそのまま伝えました。延命は望まないこと。安らかな眠りを妨げないこと。そして、今後の難病研究のために検体提供を希望していること。
あの場で私は、ただの息子ではいられませんでした。
泣きながらも、母の代わりに意思を社会へ通す役割を担わなければなりませんでした。母の望みを言葉にして伝える人間であることが、その瞬間の私に求められていたのだと思います。
母が遺した言葉
母が入院時に持っていたノートには、最後の言葉としていくつかの仏教語が記されていました。
「縁覚」 ー 自ら道を求め、自分の力で真理に近づこうとすること。
「声聞」 ー 教えを聞き、学びを通して道を知っていくこと。
「乗菩薩」 ー 人を支え、幸せを願いながら、自分もまた修行していくこと。
私はその言葉を、今後の自分の生き方の指針になるものとして受け止めました。母は最期まで、自分の死に方だけでなく、自分が何を遺すのかを考えていたのだと思います。
通夜の晩から、供養は始まった
母は生前、難病を患う中で、自分の菩提寺を定めていました。建立400年の歴史を持つ京都の寺院で、母は生前から交流を持っていました。そのため、急な通夜や葬儀にも、住職が駆けつけてくださいました。
私はそこで初めて、供養の作法を住職から直接教わりました。
住職からは、「親族は通夜の晩に夜通し経を上げるものです」と教えられました。
連日の看取りと葬儀準備で、私はもう心身ともに疲れ切っていました。けれど、その晩、母の遺体を前にして座ると、不思議と経を上げずにはいられませんでした。意識が続く限り、私は経を上げ続けました。悲しみを整理するためというより、そうすることでしか、今の自分を保てなかったのだと思います。
通夜の夜、家族の空気が変わった
その夜、不思議なことが起こりました。
母を最後まで拒絶し、相続分配に納得がいかず、父の職場などに攻撃的な電話をかけていた姉が、翌日の告別式には参列する予定でした。ところが通夜の夜、姉の夫が夢を見て、姉が私に謝るように告げられたそうです。
そして翌朝、告別式当日の朝に、姉から謝罪の電話がありました。
結局、姉は告別式を欠席しました。その後も一度、父の職場への攻撃はありましたが、私が電話で話して以降は、それ以上の干渉はなくなりました。
それをどう解釈するかは、人によって違うと思います。
ただ私には、通夜の夜を境に、家族の中の空気が一度変わったように感じられました。
誕生日を、母の亡骸の前で迎えた
母は、次代の医学のために検体になることを望み、防腐処置が行われたことで、亡くなった後も7日間、その姿をとどめました。私はその間に誕生日を迎えました。母の亡骸の前で手を合わせた時、不思議なほど感謝の念しか湧きませんでした。
本来なら、こんなに長く対面することはできなかったはずです。
けれど、その時間があったことで、私は母と静かに別れることができました。
姉妹は最後まで冷たく、葬儀を行うこと自体を否定し、参列もしませんでした。
それでも私は、喪主として、生前の母の意向に沿って葬儀を執り行いました。幼い頃に母と一緒に家を出た兄妹が背を向け、置いて行かれた私が最後を看取り、最期の儀を執り仕切る。そのことを思うと、不思議な縁としか言いようがありませんでした。
ただ、その時の私は、母を親である前に、一人の人として見ていました。
必死に生きる中で、親になりきれない部分もあった人。それでも、この命を与え、生き方を通じて学びを与え、次代につなぐ何かを残した人。そう思えた時、恨みだけでは終われないものが、確かにありました。
母の最期は、悲しみだけでは語れない
母の最期の数日間は、悲しみだけで語れるものではありません。
そこには、医療との交渉があり、意思確認があり、法的な手続きがあり、供養があり、家族のねじれがありました。そしてそのすべての場面で、私はただ感情に沈むのではなく、母に託されたことを形にする側に立っていました。
けれど、母を理解し直す作業は、そこで終わりではありませんでした。
死後に見つかった母の手記には、生前には受け取りきれなかった、もっと矛盾した感情と、もっと残酷な言葉が残されていました。
次の記事では、母の手記を読み、私は何を受け取り直すことになったのか。そして、祖母、母、自分へと続いてきた連鎖を、どう考えるようになったのかを書いてみたいと思います。
関連続記事:母の手記に残されていた矛盾した愛情――祖母、母、私へ続く流れをどう受け止め直したか
関連前記事:39年後に3日だけ親子になれた──母の看取りの中で見えた家出の背景

