以前の記事「雪の日に置いて行かれた悲しみは、今も怒り衝動として続いている」では、置いて行かれた子どもとしての悲しみを書きました。
今回はその続きとして、大人になって母の晩年に関わる中で、私が母の人生や特性をどう見直していったのかを書いてみたいと思います。
子どもの頃の傷が消えたわけではありません。ただ、母の死に際して向き合う中で、母を「自分を置いて行った人」とだけ見るのでは足りないと思うようになりました。そこには、祖母との関係や時代の制約、家庭の中で受け継がれた歪み、そして母自身の不器用さが重なっていたように思えたからです。
母との距離は、長く埋まらないままだった
目次
大人になってから母と連絡が取れるようになっても、自然に甘えられる親ではなく、距離を置いて接する「他人に近い大人」という感覚が長く続いていました。
母にはもともと、強い圧やハラスメント的な感覚がありました。看護職として長く働き、管理職も経験してきた人で、善意のつもりでも相手に強い圧をかける。愛情の表現のつもりでも、相手を対等な人として扱えていない言葉が混じる。家庭の中でもそのズレは強く、姉妹は耐えられず、独立後には母を捨てる形になっていきました。私も長く、そのズレた感覚に強い違和感を抱いていました。
母が家を出た背景には、祖母との関係があった
ただ、年を重ねる中で、母だけを一方的に責める見方では足りないとも感じるようになりました。私に起きたことは、母から日常的なハラスメントを受け続けたというより、母が家を出るという形で、親子の関わりそのものを断たれたことでした。そして今振り返るとその断絶の背景には祖母の代から家庭の中で女性が虐げられてきた不遇の連鎖もあったのではないかと思えます。
母が家を出た直接の原因は、祖母との関係でした。祖母は母に家事を教えるために厳しく接していました。しかし祖母自身も、さらにひどい姑から嫁いびりを受け、それを耐えるしかなかった時代の女性でした。離婚が許されず、経済的自立も難しく、良妻賢母を続けるしかない。そうした時代の圧のなかで、祖母の正義もまた歪んでいったのだと思います。
そう考えると、母もまた、男尊女卑や嫁姑DVのなかで圧殺され、親としての役割を十分に果たせないまま逃げざるを得なかった側面を持つ人でした。加害と被害を単純に切り分けられない。そのことを考えるようになってから、私の中に残っていた女性観の歪みも修正し、この連鎖を自分の代で断ち切らなければならないという思いが芽生えていきました。
再接近は、癒やしではなく再受傷から始まった
2020年頃になると、母との距離は再び動き始めます。
けれど、それは穏やかな再会ではありませんでした。疎遠になった理由を尋ねた時、母は「体調が悪い時に心配してくれなかった」「あんたは何もしてくれなかった」と辛辣に責め、私は忘れていた幼少期の毒を思い出しました。支えようとしても、母の人間不信が高じて私まで敵認定され、跳ね除けられることもありました。
それでも、その時私は、母に介護サービスの利用を勧めました。拒絶された時点で、私はすでに、母を親としてどう思うかとは別に、「このままでは生活が立ち行かなくなる高齢者」だと見ていました。
提案した時の母の拒否は強いものでした。けれど、そこから数週間のうちに母は考えを改め、認定調査を受け、ケアマネがつくことになります。介護保険制度の始まりからケアマネをしてきた人であるだけに、自分が要介護状態を受け入れることには強い抵抗があったのだと思います。それでも、現実の身体の衰えが、そのプライドを少しずつ動かしていきました。
近くの人は動かず、遠くの私が動くことになった
私は母と同じ県には住んでおらず、隣の県から一時間ほどかけて通う必要がありました。一方、姉は母の住む場所の向かいのマンションに住み、徒歩十分で行ける距離にいました。物理的には姉の方がずっと動きやすい立場でした。
ところが、母が買い物に行けず、食べ物も喉を通らなくなった時、本当に困って姉を頼っても、拒否は続きました。私は仕事を抱え、距離もあり、頻回に通うことはできませんでした。それでも、実際には遠方の私が動かざるを得なくなっていきました。
母を「親」ではなく「支援が必要な高齢者」として見た
この頃の私には、母を単に「親」として見るより、「支援が必要な高齢者」として見る感覚がありました。
家ではできない家事支援、外食への送迎、移動支援、買い物支援。高齢介護の現場で身についた感覚で、身体が自然に動いていたという方が近いです。
母から「人にこんなに優しくされたことがない」と言われた時は、正直驚きました。生育過程で色々あったから、自分の母の介護などする気にはならないと思っていましたが、痩せ細り、足取りもおぼつかなくなった姿を見ると見過ごせませんでした。こんなになるまで放っておいて悪かった、という思いもありました。
入院前のサービス調整でも、私は母のケアマネと連携して支援を進めていました。入院時にも、退院後の介護サービスをどう組み立てるかを考えていました。実際、入院そのものも、医師と交渉して兼ねてもらう形で進めていきました。
母のケアマネは、母の人生を「かっこいい人」と肯定的に受け止めていました。それが私には印象的でした。私にとっての母は、毒もあれば圧もあり、簡単には寄り添えない人でしたが、第三者の目には、困難を抱えながらも一つの生き方を貫いた人として映っていた。その見え方の違いも、私にとっては大きかったです。
関係が近づくほど、母の特性もよく見えた
支援が始まって関係が近づくほど、母の特性もはっきり見えてきました。
頼るべきところでは人を頼らないのに、一度頼り出した相手には驚くほど依存的になる。家族が付き添っているのにケアマネを病院に呼ぼうとしたり、人のおかずを欲しがったり、りんごの皮を剥いて持ってきてと平気で要求したりする。
その一方で、私は母を見捨てず、他者の視点を伝えて叱ることもしました。ここではもう、子どもとして従っているのでも、恨みをぶつけているのでもなく、対等な大人として母に接していたのだと思います。
母の中にあった、別の面も見えてきた
その頃になると、私は母の別の面にも気づき直していました。
母は万葉集をこよなく愛し、季節の挨拶や葉書に山上憶良や大伴旅人の想いを載せて、自分の心境を家族に伝えていた人でした。1300年前の文化人の心境を借りて自分を表現していたことを知った時、そこに発達特性らしい独特の感性と表現を感じました。歌人ゆかりの地を巡り、終焉の菩提寺までその文脈の中で定めていた。病床でも歌人への想いを語る母の話に、私は真剣に耳を傾けていました。
そこには、私が受け継いでいるものもあると感じました。母の中の圧や毒だけでなく、文化を愛し、学び続け、不器用な形でしか表現できなかった感受性も見えるようになっていました。
やっと親子らしくなれたのに、その時間は短かった
2020年の年末、私はようやく、この年齢になって母を理解できたと思うようになっていました。発達特性のこと、家族の中にあるACの連鎖のこと、祖母から母へ、母から私へ続く歪みのこと。それらを踏まえたうえで、やっと母を一面的に裁かずに見られるようになったのだと思います。
毎月の訪問を母も楽しみにしてくれ、私も介護をすることに喜びを感じ始めていました。数十年ぶりに母の家に泊まり、生涯を語りたいと思えるほどになっていました。
けれど、その時間はあまりにも短かった。病状は急変し、まともな親子として過ごせた日は、実質3日しかありませんでした。
それでも、私は最期まで支える側に立った
それでも、その3日があったからこそ、私は最期まで動けたのだと思います。遠方で無理があっても、過去に遺恨があっても、本当に困っている高齢者を放っておけなかった。
その結果として私は、介護サービスと連携し、医療と交渉し、看取り、葬儀、四十九日法要、納骨に至るまで担うことになりました。
置いて行かれた私が、連れていかれた姉妹が背を向ける中で、最後の晩年には母を支える側に回った。それは、昔の傷が消えたからではありません。むしろ傷は残ったままでした。ただ、母を「自分を置いて行った人」とだけ見るのではなく、時代や生育歴や発達特性を抱え、不器用に生きてきた一人の人として見るようになった。そして親子の感情だけではなく、支援が必要な高齢者としても見た。
その見方の変化があったからこそ、私は遠方からでも母に関わり、最期まで支える側に立てたのだと思います。
けれど、実際に母の最期が迫った時、そこにはきれいな理解だけでは済まない現実がありました。コロナ禍での面会制限、急変、遺言書の作成、延命措置の確認、そして臨終の場で母の意思をどう受け取るか。やっと親子らしい関係を取り戻したと思った矢先に、そのすべてが一気に押し寄せました。
次の記事では、母が急変してから看取りに至るまでの数日間に、私が何を託され、何を決め、何を見届けることになったのかを書いてみたいと思います。
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