発達障害である父の遍歴②

妻が置いてけぼり 全投稿
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子どものために動くほど、私は妻を置いていった。

第1話「発達障害である父の遍歴①」では、私が「毒親になりたくない」と思うようになった背景と、初婚と離婚を経て、再婚後にもう一度、親として、夫として、生活者として家庭に踏みとどまろうとしてきたことを書きました。

私は、自分の経験と資質だけで子育てをしていたら、機能不全さを連鎖し、不適格な親になることを危惧し続けていました。

だから、自分一人の感覚だけで子育てをしないようにしてきました。
たくさん本を読み、支援を借り、周囲の人の力を借りながら、自分の不足を補完しながら何とか親になろうとしてきました。

ただ、今になって振り返ると、子どものために動いているつもりでも、家庭の中で妻と足並みをそろえられていなければ、その努力が別の混乱を生んでしまい、子どもを傷つけてしまうことになりました。

私は、子どものために前へ出ようとしていました。

その一方で、妻を置いていっていました。


他者の力を借りて、親になることを学び直した

私は、自分の感覚だけを信じないようにしました。

非常にたくさんの本を読みました。
子育てや発達について学びました。
保健師さん、保育所の先生、義父母、地域の方、先輩の親御さんたちの力も借りました。

自分一人で親になろうとしなかったことは、今でも間違っていなかったと思います。

私は自分の育児能力を信じておらず、妻も産後は不安定な時期があり、支援を要していました。

特に、私のように自分自身の育ちに傷や偏りがあり、発達特性も抱えている人間にとっては経験の範疇で子育てをしても偏りがあり、社会の中で補ってもらうことが必要でした。

当時の私は、それを「自分の毒を薄めてもらう」と表現していました。

今なら、少し違う言い方をすると思います。

私は、親になるために、家庭の不足分を他者に社会に補ってもらい、他者の力を借りて学び直しをしようとしていました。自分の家庭経験にロールモデルも成功体験もなく、そのまま子どもに私の機能不全を背負わせたくなかったので人の力を借りたかったのです。

親らしく振る舞うためではなく、子どもを自分の未熟さに巻き込まないために。

障害児支援の現場で働いた経験も、私にとって大きな学びでした。

怒る、泣く、すねる、暴れる、こだわる、切り替えられない。

子どもたちは、むきだしの形で困りごとを見せてくれました。

その姿に向き合う中で、私は少しずつ理解していきました。

子どもの行動には理由がある。
大人から見て困った行動でも、その子なりの不安、混乱、伝えられなさ、疲れ、感覚のしんどさがある。

だから、ただ叱ればいいわけではない。
ただ受け止めればいいわけでもない。

その子が何に困っているのかを見立て、環境を整え、わかる形で伝え、できる経験を積めるようにする。

その積み重ねが、支援であり、子育てでもあるのだと学びました。

児童書や育児書、モンテッソーリ教育、シュタイナー教育、ペアレントトレーニングなどにも強く惹かれました。

それらの本には、子どもを支配する方法ではなく、子どもの育つ力を信じる視点がありました。

子どもは、大人の思い通りに動かす存在ではない。
その子の中にある力が育つように、環境を整える。
大人は命令する人ではなく、育ちを支える人になる。

その考え方は、当時の私にとって救いでした。

なぜなら私は、自分がそう育てられたかったからです。

力で押さえつけられるのではなく、放っておかれるのでもなく、自分の中にある力を信じてもらいたかった。

だから私は、子どもにはそう関わりたいと思いました。ただ、私の中には後天的に知識で学ぶ以上に、沁みついてしまっていた偏りや、火が付くようなトラウマの衝動性があったのです。


PTA会長としての空回り

対外的には、子どもが保育園の時にPTA会長も経験しました。

ただ、これは本当に無理をしていました。

当時の私は、母親同士のつながりが中心になる保護者社会の中で、穏やかにコミュニケーションをとることができませんでした。

お母さん方が日々どれほどの負担を抱えているのかも、十分に理解できていませんでした。

その一方で、保育をめぐる社会的な情勢や制度的な課題には敏感でした。

そのため、PTAという枠組みの中で求められている役割を超えて、保育や社会のあり方に関わるような提起をしてしまうことがありました。

今から振り返ると、それは場に合っていなかったのだと思います。

私にとっては必要な問題提起でも、周囲のお母さん方にとっては、目の前の負担をふやすものでしかありませんでした。

日々の園生活や行事を回すだけでも大変な中で、私はその負担感を十分に見られていませんでした。

結果として、私は総スカンをくらうような形になりました。

後半は、ほとんど責任感だけで乗り切りました。
精神的にはかなり苦しく、それ以降、私は保護者会活動には二度と参加しなくなりました。

その代わり、小学校にあがると学校の先生方とはよく話し合うようにしました。

子どもの教育環境がどうなっているのか。
学校で困っていないか。
必要な配慮や調整はないか。

そのあたりは、自分なりに見守ってきたつもりです。

その頃には相談員としてのキャリアもありました。

幼稚園の時のように場を読み違えることは少し減り、学校との交渉や話し合いは、以前よりはうまくできるようになっていたと思います。

ただ、本当に必要だったのは、対外的な調整をうまくすることだけではありませんでした。

家庭の中で、妻と足並みをそろえること。

そこが、私には十分にできていませんでした。


子どものために動くほど、妻を置いていった

私は、子どものために必要だと思うと、前に出て話をしようとしました。

学校と話し合い、環境を整え、子どもが困らないように調整しようとしました。

それ自体は、間違いではなかったと思います。

ただ、私が前に出るたびに、妻が教育的に関わる機会を奪っていた面がありました。

妻が母として子どもと向き合い、悩み、考え、少しずつ関わり方を作っていく機会。
妻自身が、子どもとの関係の中で成長していく機会。

私は、それを十分に尊重できていませんでした。

結果として、妻に教育的な関わりを半ば諦めさせてしまいました。

子どもにとっても、それは大きな負担でした。

たとえ学校で困らないように環境を調整してもらっていたとしても、家庭の中で父と母の教育方針が合っていなければ、子どもは安心できません。

子どもへのかかわり方をめぐって、父と母が言い合いになる。

父母間の教育方針がかみあわない。

どちらの話を聞けばいいかわからない。

その混乱は、学校環境の問題以上に、子どもにダメージを与えるものでした。

私は、外の環境を整えることには目を向けていました。

けれど、家庭の中で子どもが受け取っている混乱には、十分に気づけていませんでした。

やがて家庭の中では、教育方針について話しても無駄だと思うようになっていきました。
妻と話し合うことも、少しずつ避けるようになりました。

 その頃の私は、子育てについて考える場所や、自分の考えを整理する場を、家庭の外に求めるようになっていました。

そこには、子育ての先輩として参考になる話もありました。
私には見えていなかった子どもへの関わり方や、母を中心にした家庭の作り方を知る機会もありました。

けれど、私はそれを家庭に持ち帰って、妻と向き合うために使うことができませんでした。

むしろ、外で得た見方を基準にするほど、家庭の中で妻と話し合うことを避けていきました。

その結果、家庭の中では、父と母の足並みがそろわないだけでなく、父の考えが家庭の外へ向いているような状況を作ってしまいました。

これは、子どもにとって大きな負担でした。

私が子どものために考えているつもりだったことも、家庭の中に安心できる土台がなければ、かえって混乱を生みます。

そのことに、当時の私は十分に気づけていませんでした。

その時の私は、妻が話を聞いてくれないのだと思っていました。

でも、話を聞いていなかったのは、私の方でした。

私は自分の経験を信じていませんでした。だから知識を補っていました。その為、経験や感覚で子どもに向き合う妻の発言を信じられず、軽んじてしまっていました。

そのことに気づけたのは、子どもが私との距離を取るようになってからです。

子どもとの距離ができて、初めて私は立ち止まりました。
そして、ようやく妻と話し合うようになりました。

それまで私は、妻が私の考えを理解してくれないのだと思っていました。

けれど、話し合いを重ねる中で見えてきたのは、私が妻の考えや負担を十分に聞いてこなかったという事実でした。

私は、自分が子育てについていこうとするあまり、妻を置いていっていました。

前の家庭でできなかったことを、今度こそやり直したい。
子どもの成長に置いていかれたくない。
父として、家庭の中に踏みとどまりたい。

その必死さが、いつの間にか独りよがりな子育てになっていました。

私は、子どものために動いているつもりでした。

でも、子どもにとって本当に必要だったのは、父が正しいことを言うことだけではありませんでした。

父と母が、子どもの前で足並みをそろえていること。
家庭の中に安心で
きる土台があること。
どちらの顔色を見ればいいのか迷わなくて済むこと。

その当たり前のことを、私は見落としていました。


努力したことと、安心を与えられたことは同じではなかった

私は、たくさん学びました。
努力もしました。
自分なりに、過去の連鎖を止めようとしてきました。

それでも、親として機能不全な部分を払拭できませんでした。

子どもにとって、私の関わりが重かった時もありました。
私の正しさが、子どもの気持ちより前に出てしまったこともありました。
理解しようとするあまり、かえって子どもの自由な感情を狭めてしまっていました。

「毒親にならないために努力した」

でも、その努力だけで、子どもが傷つかずに済みませんでした。

毒親になりたくなかった。
そのために学んだ。
人の力も借りた。
自分なりに変わろうとした。

それでも、親子関係は簡単ではありませんでした。

親がどれだけ必死だったかと、子どもが安心できていたかは、別の問題です。

そのことを、今の私は痛いほど感じています。


つづく

私は、子どものために動いているつもりでした。

けれど、家庭の中で妻と足並みをそろえることができず、結果として子どもに混乱を与えてしまいました。

そのことに気づけたのは、子どもが私との距離を取るようになってからでした。

けれど、家庭はまだ終わっていません。

次の記事では、妻が私を見捨てず、家庭としての足並みをもう一度整えようとしてくれている現在地について書きます。

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    発達障害の診断を受け、人生を振り返り自らの生き方を模索した1年半の葛藤を記しています。当事者、専門職の視点で発達障害について学び、福祉サービスを利用する中で、障害受容と自分らしく生きる道が見えて来ました。
    ライトに書くつもりでも、時折、複数の知識が直結する「ニューロダイバシティ現象」が起こり奇跡の様な記事が生まれています。

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