この記事は、2019年3月24日に書いた記事を再編したものです。
2019年3月15日の判決当時、私はこの事件を通して、孤立した育児や睡眠不足、母親に偏る負担、支援の届きにくさについて考えました。今回は、当時の記事の問題意識を残しながら、表現の重複を整理し、読みやすい形に再構成しています。
2018年1月11日、愛知県豊田市で、三つ子を育てていた母親が、生後11か月の次男を二度布団に叩きつけ、搬送先の病院で死亡する事件が起きました。
そして2019年3月15日、名古屋地裁岡崎支部は、その母親に懲役3年6か月の実刑判決を言い渡しました。判決では、三つ子の育児に同情の余地はあるとしながらも、行為については「生命・身体に対する危険性が高く、悪質」「身勝手で過剰な反応」と評価し、「執行猶予をつけるほど軽い事案ではない」とされました。
私はこの判決を知ったとき、強い違和感を覚えました。
もちろん、幼い命が失われた結果は重く、取り返しがつきません。
そのことの重さを軽く見るつもりはありません。
けれど、この事件をただ「母親が子どもを死なせた」という図式だけで受け止めてよいのか。
そこに至るまでに、どれほど極端な条件が重なっていたのか。
そのことを見ずに、母親個人の責任だけを強く問うことに、私は引っかかりを覚えました。
この母親は、三つ子それぞれに三時間おき、計八回の授乳サイクルがあり、睡眠は一時間しか取れていなかったとされています。
一時間睡眠が続く生活は、単なる「大変さ」ではありません。
判断力を落とし、感情を不安定にし、前向きな見通しを奪っていきます。
しかもそれが一晩ではなく、毎日続く。
そうした極限状態にいた人に対して、あとから冷静な基準だけで「なぜ助けを求めなかったのか」と問うことには、やはり無理があるように思えます。
11か月まで三つ子育児を続けてきたこと自体、放置や手抜きではできません。
毎日何とか回してきた。
何とか耐えてきた。
その先に心身の限界があったのではないか。
私は当時から、そう考えていました。

ここまで追い詰められていたのなら、ただ「母親が悪い」で終わらせるのは、あまりにも苦しさを見落としている気がします……。



そのお気持ちはもっともです。
結果の重さは重い。けれど、それだけを見ていては足りません。
三つ子育児、睡眠不足、孤立、支援の届きにくさ。
そこに至るまでの条件を見なければ、また同じ孤立を見落とします。



――いやまあ、外からなら何とでも言えるわな。
夜中に何回起きるかも知らんまま「母親失格」は、だいぶ雑やで。
さらに重いのは、行政の保健師にSOSのサインが出されていたとされる点です。
もしそうであったなら、この事件を「母親だけの責任」として閉じるのは、あまりに不十分です。
本来問われるべきなのは、三つ子育児という極端に負荷の高い状況に対して支援は十分だったのか、睡眠不足と孤立が深まる前にもっと具体的な手助けはできなかったのか、母親一人に負担が集中している家庭をどう見立てるべきだったのか、ということです。
乳児の育児、とくに多胎育児の苦しさは家庭の外から見えにくいものです。
泣き止まない時間も、細切れの睡眠も、終わらない授乳も、家の中に閉じ込められてしまう。
けれどその背景では、命を守る責任と、睡眠不足と、孤独と、逃げ場のなさが積み重なっています。
私はこの事件を、母親個人を責めるための材料ではなく、孤立した育児をどう防ぐかを考えるための材料として受け止めるべきだと思います。
母親ならもっと頑張れたはずだ、ではなく、どうすれば限界を迎える前に休めたのか。
どうすれば家庭の中に閉じ込められた負担を外から見つけられたのか。
どうすれば「助けて」と言えない段階の疲弊にまで支援が届いたのか。
そこを考えなければ、また同じような孤立を見落としてしまうのではないでしょうか。
この事件は、一人の母親だけの失敗として終わらせるには、あまりに多くの問題を含んでいます。
三つ子育児という条件の重さ。
睡眠不足の深刻さ。
支援の届きにくさ。
家庭内で偏る負担。
そして、母親だけに耐久を求めがちな社会の空気。
そうしたものを見ないまま、「悪質」「身勝手」という言葉だけで閉じてしまうことに、私は今もなお違和感があります。



責任を問うだけでは、次を防げないのですね……。



はい。
責任を問うことと、限界に至る前の条件を見ることは、別の話です。
本当に必要なのは、壊れてから裁くことではなく、壊れる前に支える視点でしょう。



――「もっと早よ助け呼べばよかったやん」は、外野の定番やな。
呼べる余裕あったら、そこまで追い詰められてへんことも多いねんけど。

