リストラの時代に、誰が働く場から押し出されたのか①|発達障害・精神障害が見えにくかった時代

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連日、かつて日産自動車の再建を主導したカルロス・ゴーン氏の名前が、報道の中で取り上げられていました。

もちろん、当時の法廷で争われていた金融商品取引法違反などの問題は、法的には重要な争点です。
しかし、私が長く引っかかってきたのは、そこではありません。

私が考えたいのは、ゴーン氏個人の刑事責任そのものではなく、彼が象徴するようなリストラ型の経営改革が、日本社会に何を残したのかという点です。

1999年、日産は「日産リバイバル・プラン」を発表し、グループ全体で2万1000人規模の人員削減を行う方針を示しました。日産の公式発表でも、その人員削減は自然退職、パートタイマー活用、ノンコア事業の分離、早期退職制度などで達成するとされています。

経営危機にあった企業を立て直すという意味では、それは「改革」と呼ばれました。
実際に、経営上の成果を評価する声もあります。

けれど私は、その出来事を単なる経営改革としてだけ見ることができません。

その時代、働く場から静かに押し出されていった人たちがいたのではないか。
特に、当時まだ十分に理解されていなかった発達障害者や精神障害者は、どこへ行ったのか。

私はそこに、今も消えない痛みを感じています。


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終身雇用と年功序列の中にあった、ある種の「居場所」

終身雇用や年功序列は、決して理想的な制度だったわけではありません。

年齢だけで賃金が上がる仕組みには不公平もありました。
職場の同調圧力も強く、会社に人生を預けるような働き方には、息苦しさもありました。

だから、それらの制度を一概に美化するつもりはありません。

それでも、終身雇用と年功序列には、ある種の包摂機能があったのだと思います。

多少不器用でも、すぐに成果が出なくても、職場の中に残り続けることができた。
癖のある人、変わった人、コミュニケーションが苦手な人も、「まあ、あの人はああいう人だから」と言われながら、同じ会社の中で働き続ける余地がありました。

今なら発達障害や精神障害として理解される人たちも、当時は診断名や支援制度につながらないまま、会社の中で働いていたはずです。

それは決して十分な配慮ではなかったかもしれません。
本人は苦しかったかもしれません。
周囲との摩擦も多かったでしょう。

それでも、「会社の中に存在し続けられる」という一点において、終身雇用の時代には、今とは違う居場所があったのだと思います。


発達障害は、まだ「変わった人」として見られていた

1990年代当時、発達障害への社会的理解は、今とは大きく違っていました。

発達障害者支援法が施行されたのは2005年4月です。この法律は、発達障害の早期発見や発達支援、学校教育、就労支援、発達障害者支援センターなどを定め、発達障害者の自立と社会参加を支えることを目的としたものです。

つまり、1999年当時には、発達障害者支援法はまだありませんでした。

もちろん、発達障害のある人は昔から存在していました。
けれど、その人たちは「発達障害者」として理解されるのではなく、

「変わっている人」
「空気が読めない人」
「不器用な人」
「扱いにくい人」
「仕事はできるところもあるけれど、周囲と合わない人」

として、職場の中にいたのだと思います。

その人たちが、終身雇用の仕組みの中で、何とか働き続けていた。
そこに突然、成果主義やリストラの波が押し寄せた。

そのとき、真っ先に「使いづらい」と見なされたのは、どのような人たちだったのでしょうか。

すぐに成果を出せる人。
人間関係をうまく調整できる人。
上司に自分の価値を説明できる人。
組織の変化に素早く適応できる人。

そうした人たちが残りやすくなる一方で、説明が苦手な人、不器用な人、環境変化に弱い人、心身の調子を崩しやすい人は、働く場から押し出されやすくなったのではないか。

私は、そこに強い問題意識を持っています。


精神障害を隠しながら働いていた人たち

精神障害のある人たちにとっても、当時の職場は決して開かれた場所ではありませんでした。

今でこそ、メンタルヘルス、合理的配慮、障害者雇用、就労定着支援などの言葉が広がっています。
しかし、1990年代当時、精神疾患や精神障害を職場で開示して働くことは、非常に難しかったはずです。

精神保健福祉法は、精神障害者の権利擁護、社会復帰の促進、自立と社会経済活動への参加促進などを目的にしています。
けれど、制度が整っていく過程にあっても、社会の偏見や職場の理解はすぐには変わりません。

多くの人は、症状や通院を隠しながら働いていたのではないでしょうか。

体調が悪くても、言えない。
仕事量がしんどくても、相談できない。
休むと評価が下がる。
人間関係がつらくても、耐えるしかない。

その中で、終身雇用の仕組みは、少なくとも「すぐには切られない」という意味で、一定の支えになっていた面があったのだと思います。

しかし、成果主義やリストラが広がると、その支えは弱くなりました。

「今すぐ利益を生むか」
「組織に適応できるか」
「効率的に働けるか」

そうした基準が前面に出たとき、精神的に不安定さを抱える人、環境変化に弱い人、人間関係の摩擦で消耗する人たちは、ますます追い詰められていったのではないか。

私は、そこを見過ごしたくありません。


「自己責任」だけで語れないもの

リストラを語るとき、よく言われる言葉があります。

「能力がなかったから仕方ない」
「会社も生き残るためだった」
「時代の流れだった」
「自己責任だ」

もちろん、企業には経営責任があります。
倒産すれば、より多くの人が職を失うこともあります。
経営改革そのものを全否定するつもりはありません。

けれど、「自己責任」という言葉だけで片づけてよいのでしょうか。

発達障害という言葉も十分に広がっていなかった時代。
精神障害を開示して働くことが難しかった時代。
就労支援や合理的配慮の仕組みも、今ほど整っていなかった時代。

その中で、会社に人生を預けるように働いてきた人たちが、突然「不要」とされる。

それは単なる配置転換や転職ではなく、本人にとっては、
自分の人生そのものを否定されたように感じられる出来事だったかもしれません。

仕事を失うということは、収入を失うだけではありません。
社会とのつながりを失う。
家族の中での役割を失う。
自分の存在価値を支えていたものを失う。

とくに、会社の中でしか自分の居場所を見つけられなかった人にとって、リストラはあまりにも大きな断絶だったと思います。


受け皿のないまま、働く場からこぼれ落ちた人たち

問題は、職を失った後に、十分な受け皿があったのかということです。

今であれば、発達障害者支援センター、障害者就業・生活支援センター、就労移行支援、就労継続支援、精神科デイケア、相談支援、障害者雇用、就労定着支援など、まだ不十分ながらもさまざまな制度があります。

しかし、当時は今ほど制度が整っていませんでした。

自分がなぜ職場でうまくいかなかったのか。
どういう環境なら働けるのか。
どんな配慮があれば力を発揮できるのか。
次にどこへ相談すればよいのか。

その整理をする機会もないまま、働く場からこぼれ落ちた人がいたのではないでしょうか。

当時の社会の空気を考えるうえで、ひとつ無視できない数字があります。

1997年には2万3494人だった自殺者数は、1998年に3万人を超え、その後も長く3万人前後の高い水準で推移しました。

もちろん、この数字をもって「リストラだけが原因だった」と単純に言うことはできません。自殺に至る背景には、経済不況、雇用不安、長時間労働、職場ストレス、家庭の問題、病気、孤立など、複数の要因が重なります。

それでも、働く人のメンタルヘルスや雇用不安が、社会全体の大きな課題として浮かび上がっていた時代だったことは確かです。

参考:1997年〜2009年の自殺者数の推移を見る
自殺者数
1997年23,494人
1998年31,755人
1999年31,413人
2000年30,251人
2001年29,375人
2002年29,949人
2003年32,109人
2004年30,247人
2005年30,553人
2006年29,921人
2007年30,827人
2008年30,229人
2009年30,707人

※元記事で使用していた警察庁統計をもとに再整理。数値は当時記事内に掲載していた表から再構成しています。

出典:警察庁「自殺統計」をもとに作成

私がこの数字を見て感じるのは、誰か一人の責任を断罪したいということではありません。

むしろ問いたいのは、当時の日本社会に、働く場からこぼれ落ちた人たちを受け止める仕組みがどれほどあったのか、ということです。

発達障害という言葉も十分に広がっていなかった時代。
精神障害を職場で開示して働くことが難しかった時代。
就労支援や合理的配慮の仕組みも、今ほど整っていなかった時代。

その中で、職場に合わなかった人、体調を崩した人、うまく説明できなかった人たちは、どこへ行ったのでしょうか。

この問いが、私の障害者雇用への期待につながっています。

問題は、職を失った後に、十分な受け皿があったのかということです。

今であれば、発達障害者支援センター、障害者就業・生活支援センター、就労移行支援、就労継続支援、精神科デイケア、相談支援、障害者雇用、就労定着支援など、まだ不十分ながらもさまざまな制度があります。

しかし、当時は今ほど制度が整っていませんでした。

自分がなぜ職場でうまくいかなかったのか。
どういう環境なら働けるのか。
どんな配慮があれば力を発揮できるのか。
次にどこへ相談すればよいのか。

その整理をする機会もないまま、働く場からこぼれ落ちた人がいたのではないでしょうか。

もちろん、すべてをリストラだけのせいにすることはできません。
経済不況、雇用不安、長時間労働、職場ストレス、家庭環境、医療や福祉制度の未整備など、さまざまな要因が重なっていました。

それでも私は、当時の雇用のあり方が、多くの人の心身に深い影響を与えたことは否定できないと思っています。

1998年以降、日本の自殺者数は年間3万人を超える水準で推移し、働く人のメンタルヘルスは大きな社会課題となっていきました。これは単一の原因で説明できるものではありませんが、雇用不安や職場環境の問題を抜きにして語ることもできないはずです。


リストラの時代に感じていた怒りと問い

当時の私は、こうしたリストラの流れに強い怒りを感じていました。

働きづらさを抱えた人たちが、社会の都合で切り離されていく。
しかも、その人たちは、自分の困難を説明する言葉も、支援につながる道も、十分に持っていなかった。

けれど、問題意識そのものは、今も変わっていません。

働く場から押し出された人たちは、どこへ行ったのか。
発達障害や精神障害への理解が乏しかった時代に、職場からこぼれ落ちた人たちは、どのように生きていったのか。
社会は、その人たちを支える仕組みを本当に用意していたのか。

私は、この問いを今も持ち続けています。

そして、この問いは現在の障害者雇用の問題にもつながっています。

障害者雇用は、単に雇用率を満たすための制度ではありません。
本来は、こうして働く場からこぼれ落ちてきた人たちを、もう一度社会の中に迎え入れるための制度であるはずです。

だからこそ、私は障害者雇用に期待してきました。
そして、だからこそ、その制度が数字合わせや外部化された仕組みに変わっていくことには、強い違和感を持っています。


次回へ

次回は、リストラや成果主義の時代を経て、働く人のメンタルヘルスがどのように社会課題になっていったのかを考えます。

職場で心を壊してから支援するのではなく、壊れにくい働き方をどう作るのか。
その問いは、働き方改革やワークシェアリング、そして障害者雇用の可能性へつながっていきます。

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    ライトに書くつもりでも、時折、複数の知識が直結する「ニューロダイバシティ現象」が起こり奇跡の様な記事が生まれています。

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